理恵

 カウンターに肘をのせて、課長は私をのぞきこむように話しかけてきた。
 「秋山くん、こんないい縁談はめったにないよ。君も彼女には何回か会っているだろうが、美人だし聡明な人だ。部長も君を気に入って、ぜひにということだし、彼女もまんざらでないようだ。それに君にとっても、部長の娘婿ともなれば、将来何かと‥‥」
 「よしてください」
 私は水割りを一気にあおると、吐き捨てるように言った。課長が本心から、一人者の私を心配して言ってくれていることはわかるのだが、出世のことにからめて縁談を持ち出されると不愉快だった。
 「まだ結婚のことは考えていません。いや、一生独身で通すつもりです」
 「それはいくらなんでも君‥‥」
 「私の分の勘定はここに置きます。では課長、お先に失礼させていただきます」
 「おい、秋山君、待たまえ」
 私は課長の声を後にスナックの外に出た。夜風が頬にあたると、少し酔ったことがわかる。課長にすまないなと思いながら、こうしたほうが良かったんだと、しきりに自分に言い聞かせていた。 
 課長の薦めてくれた相手は、我が社の次期専務最有力候補である総務部長のお嬢さんであった。課長の言う通り、才色兼備のうえ気立てのよい、まったく文句のつけようのない女性で、私もあの人ならばと心が動いたことは事実である。しかし、私にはどうしても踏み切れない理由があった。
 大学時代のこと、私には将来を約束した女性がいた。
 理恵‥‥
 同じ大学の一年後輩だった。童顔につぶらな瞳が印象的な子で、笑顔に不思議な魅力があり、見ていた者が引き込まれるように思わず笑顔を浮かべてしまう。そんな女性であった。
 結婚の約束をしたといっても、彼女との間だけのことであって、一人娘の理恵と、また長男である私との結婚に、彼女の両親は猛反対をした。私の郷里の両親は了解してくれていたので、彼女の両親さえ説得できればと、何度も足繁く通ったのだが、頑として首を縦にふってくれそうにはなかった。
 そうこうするうちに、私と理恵の間には、どちらから言うともなく、駆け落ちしようという約束がとりかわされていた。アパートを決め、預金を移し、その後大学を中退することまで話は進んだ。
 ところが決行の当日、理恵が両親にあてて書いた書き置きを、まだ彼女が家にいるうちに父親が見つけてしまったのだ。父親は荒れ狂い、理恵は自分の部屋に閉じこめられ、彼女は家を出ることができなくなってしまった。
 理恵の住んでいた所は七階建てのマンションの最上階。玄関には父親が陣取って、眼を光らせている。普通の女性であれば、ここであきらめてしまったであろう。しかし、人いち倍負けん気の強い彼女は自分の部屋の窓から屋上に抜けだそうと企てたのだった。
 彼女が来るのを、いまかいまかと待かまえていた私に、友人から電話があった。
 理恵は足をすべらせて、マンションの七階から墜落した  
 信じられない気持ちで、私は理恵の住むマンションに駆けつけた。
 張りめぐらされたロープ、集まったヤジ馬たち、そして歩道を赤く染めた鮮血を眼にした途端、私の意識は急速に遠のいていった。
 気がつくと私は病院のベッドの上にいた。
 今考えると、その時に気を失っていなければ、私は理恵の後を追って自殺を図っていたことだろう。
 半狂乱の一年が過ぎ、いくらか正常な思考ができるようになると、私は理恵の想い出を胸に、一生結婚はすまいと心に誓ったのだった。
 理恵であれば、こんな私の気持ちをつまらない感傷だと笑い、新しい女性との結婚を勧めてくれるに違いない。だが、そんな理恵だったからこそ、私は彼女を忘れられないでいる。
 もちあがった縁談によって、私はかさぶたの下の傷が、まだ想像以上に生なましいことを知った。
 その痛みをまぎらわすために私は数軒の店をはしごして、アパートの自分の部屋に帰りつくなり、前後不覚に眠りについた。
 その夜、私は夢を見た。
 オレンジ色のサングラス越しに白黒映画を見ているかのように、その夢はオレンジ一色に染まっていた。夜空の闇も、月の光もオレンジ色をしていた。そのオレンジの光景のなかで私は、周囲を胸までの高さの手すりにかこまれた、四角いコンクリートの上にいた。
 「秋山さん」
 聞き覚えのある声がした。
 「理恵」
 私は声のした方を見た。
 理恵は黒いマントに身をつつみ、胸まである髪を風になびかせながら、空中に漂っている。すべてがオレンジ色のその中で、理恵の白い肌だけが異様なほどはっきりと見えた。
私は理恵のいる向きの手すりに駆けよった。
 眼下に広がる屋並みに、自分のいる場所がビルの屋上だということがわかった。理恵はそこから二メートル前方の宙に浮いて、私をさし招いている。
 「理恵、今そこに行くぞ」
 私は体を手すりからのりだした。不思議と地上に墜ちるかもしれないとは考えなかった。
 しかし、どうしてもその手すりを越えることができない。それが後ろから押さえつけられているように感じ、私は背後を振り向いた。
 途端場面が変わり、私は実家の一室で母親と向かいあって座っていた。
 「東京の大学にそれほど行きたいかい」
 母は寂しげにつぶやく。
 「東京でもどこでもいいから、おまえと暮らすことができればいいねえ」
 私は気がついた。これは私が東京の大学に進学したいと母に相談したときの光景だ。私と離れることを母は最後まで嫌がった。現在その母は郷里で、私と暮らすことだけを楽しみにしているはずであった。しかし、私は今、理恵のもとに行こうとしている。それは死を意味することになるだろう。
 「おふくろ、ごめん。許してくれ」
 気がつくと私は、再びビルの屋上にいた。
 目の前で理恵が微笑んでいる。やさしく、私を包みこむように。
 近寄ろうとするのだが、気があせるばかりで指1本動かすこともできない。必死の思いで見つめる私の視線をはぐらかすように、笑みを浮かべたまま理恵は次第に遠ざかっていった。
 「理恵っ、理恵‥‥」
 私の叫びもむなしく、理恵の姿は背後の闇にかき消すように消えた。
 ふいに体の自由が戻り、がっくりと私は膝をついた。涙がとめどもなく頬を濡らす。ただむしょうに哀しかった。
 ふと、前に立つ人影に気がつき、私は視線をあげた。
 そこには喪服を着た理恵の父親が立っていた。胸の前で握りしめたこぶしをぶるぶると震わせながら、憎悪に燃えた眼を私に向けている。
 「きっ、きさまあっ、娘を‥‥娘を返せっ」
 どこかで聞いた言葉だと思った。確か理恵の葬儀の時に、電柱の影から見守っていた私を、めざとく見つけた彼女の父親が、突きとばしざまに言った言葉だ。(悲しいのはあなただけじゃない、俺だって、俺だって‥‥)あの時に言えなかった言葉は、今も言うことができなかった。あの時と同じく、父親の眼に浮かんだ涙に、私は言葉を失っていた。
 振りあげられたこぶしに、私は静かに目を閉じた。
 ‥‥
目を開くと、理恵の父親の姿はなく、代わりに手すりに腰掛けた理恵がいたずらっぽく笑っていた。よろよろと近づくと、理恵が差しのべた手を、私は握りしめた。
 「秋山さん、逢いたかった」
 「俺もだ、理恵。この十年間、君のことを忘れたことなんてなかった」
 理恵は淋しげな目を私に向けると、うつむいてつぶやいた。
 「一人は暗くて、寒くて‥‥。ずっとあなたのことをわたしは待っていた。だのにあなたは来てはくれなかった」
 「‥‥」
 「なぜ、なぜ死んでくれなかったの。そうすればすぐにでも二人は一緒になれたのに。結局あなたはわたしを裏切った」
 「それは違う。違うんだ、理恵」
 理恵は顔をあげた。悪意に満ちた冷笑を浮かべる理恵に、危険なものを感じて私は後ずさった。
 「理恵、おまえ‥‥」
 「もう遅い、もう遅いのよ」
 その言葉と同時であった。一瞬のうちにビルの屋上は消滅し、無限の奈落へと続く虚空と化していた。私は叫び声をあげながら、どこまでも墜ちていった。
墜ちていく私に、上からのぞきこむようにしている理恵の顔が見えた。憎しみとあざけ りにゆがんだ顔は、まさに鬼女の相だった。かん高い笑い声が、私を追いかけるように響いた。
 理恵に裏切られた悲しみが、狂るおしいほど私の胸をしめつけた。
 「理恵、なぜ‥‥」
 理恵の姿が黒い一点になって、私は暗黒に包まれた。
 私が夢から覚めたのは、電話のベルによってであった。布団をはねのけると、私は受話器をとった。耳に聞き覚えのある声が流れてきた。
 「ああ、もしもし、秋山君かい。私だ。いったい今日はどうしたんだね。無断欠勤などする君ではないし。いや、もし、昨日のことを気にしているといけないと思ってね」
 電話の相手は課長であった。柱時計を見上げると、すでに午前十時をまわっている。
 「どうもご心配をおかけしました。昨日はこちらのほうこそ、失礼なことばかり言ってしまって。あれから飲みすぎて、寝過ごしたようです。すぐ、そちらに行きますから」
 そこで私は言い淀んだ。夢の中で見た理恵のすさまじい形相が目に浮かんだ。私は気をとりなおすと、受話器に向かって言った。
 「‥‥課長、昨夜のお話、考えさせていただけますか」
 「おお、ようやくその気になってくれたか。まあ、今は会社の電話を使っているので、その話は帰りにじっくりさせてもらうとしよう」
 私は受話器を置くとため息をついた。なにか大きな肩の荷をおろしたような気持ちだった。
 ふと、なにげなく手を見た。両手とも赤茶けた鉄さびに汚れている。私は驚きをもって、夢の中でさびた手すりにつかまったことを思い起こした‥‥
 縁談はもともと先方から望んでいたことなので、とんとん拍子に進んだ。現専務夫妻が正式な仲人となり、それから半年後、私と総務部長のお嬢さんは挙式をあげたのであった。
 しかしその間も、気立ての良かったあの理恵が、なぜあのような形で夢の中にでてきたのかどうにもわからず、心のつかえとなって私を悩ませていた。
 だが、それも今となっては理解できる。彼女は、自分の想い出が私の結婚に踏み切れない原因だと知って、自分への想いをなくさせるために、あのような形で夢の中に現れた。
 理恵のやりそうなことだ。‥‥あいつめ。
 私は微笑しながら、彼女に感謝した。
 「秋山さ‥‥、あなた」
 となりの座席からためらいがちに、妻が話しかけてきた。新婚旅行の帰りの飛行機のなかでである。
 「なにを笑っているの」
 「いや‥‥別に。なんでもないさ」
 私は話をそらすと、窓の外の光景に気をとられているふりをした。
 理恵のことは妻には黙っていよう。ハネムーンに昔の恋人のことを言うような野暮なまねはしないほうがいい。
 たとえ初夜の晩に、疲れて眠る私の枕元に立った理恵が「おめでとう」と言ってくれたにしろ。